ぶらっと恩田川

土いじり。時々、恩田川の散歩、街歩きに登山。

26/01/13 相州大山

山の会で恒例になっていた相州大山登山と初詣の参加者も、今年は二人だけとなってしまいました。

阿夫利神社下社からの急登を登りきって、尾根に上がると南西からの風が強く吹いていました。

西側の大倉尾根にて山火事が発生していましたが、煙も匂いも感じられませんでした。

気温はさほど低くなく、風裏の東斜面は暖かく、ゆっくり昼食が摂れました。登山中、上空は、青く澄み渡っていると見えましたが、黄砂の影響か近場の横浜のビル群も江ノ島も大島も富士山も目視出来ずでした。

帰路は、見晴らし台へ下りました。

44年前、一人で歩いた頃に比べて、登山道に手が入り歩き易くなりました。

それでも山は険しく危険も潜んでいます。前日も高齢者が転んで一人お亡くなりになったと下山後に知りました。

登山道に木道を敷設したり、落石防止の金網を設置したり、崩れた登山道に鉄製のハシゴ渡し転落防止のロープを張り事故防止に努めても、事故が起こるのが山ですから慢心は禁物です。何でもないように見える場所こそ注意しないといけません。

 

大山ロープウェー駅の近くでミツマタの花が咲いていました。

ミツマタやロウバイに気づくようになったのは、何年前位かな?自分が気付く前からあったわけですが、ウメやサクラのような身近な花は、幼い頃から名前や姿、香りを覚えますが、地味な花は、目に入らず何度も通り過ごしていたのだろうと思います。

 

身体は衰えるばかりだけれど、年を取ることは悪い事ではなく、沢山経験してきたことを大切にして、まだこれからでも新しい経験を積んで視野を広げ柔軟に物事を考えられるように変化してゆきたいものです。

ロープウェーの乗務員さんも、いつの間にか孫と同じ年代の若い人たちが携わるようになり、チケットもウェブ上で購入ができるように変化していました。

1965/7/11に開業し、60周年だそうです。

 

 

25/12/19 街歩き 旧東海道箱根宿から三島宿

今回は、小田原駅から路線バスで終点箱根町港バス停から出発でした。

 

バス停から町中を西に少し行き芦川の石仏から外輪山への登りに。

ジグザグに標高を上げて通る国道1号の下をくぐり、折り返して来た国道にぶつかるまでが、昔の面影を残しています。

 

国道沿いにある道の駅「箱根峠」から『駒ヶ岳』を望む。

 

更に登り箱根峠を過ぎると関東(神奈川県)ともお別れです。

 

箱根峠を少し下った所に迂回を案内する掲示物があったのですが、見落としてUターン。

台風の被害を受けてから年月が過ぎても未完成です。工事にだいぶ時間がかかっています。ただ、街道を降るうちに、丁寧に整備をしていることが分かり、時間がかかるのも仕方がないと思えました。

箱根の山中に比べるとこちらの方が断然歩きやすい。

 

令和元年の台風被害以降、発掘調査をしながら復元工事を続けているために時間がかかっているのだろうと思います。

調査や復元工事に携わる方々お疲れ様です。

 

『雲助』になった元侍の墓

子どもの頃は、時代劇に『雲助』が登場する場面が時々あったと思いますが、最近は登場することもないので、知らない聞いたことない方も増えたでしょう。

 

錦田一里塚北塚

国道1号線を挟んで南にも一里塚が残っていました。

傾いた眩しい西日に急かされ、ストライドが伸びる下り坂に身を任せ先を急ぎました。

 

標高が下がるにつれて街並みが混み始め、東海道本線の踏切を越え新町橋を渡ると三島の市街地が近くです。

橋の上以外にも、三島市眺望地点を通りましたが、富士山は雲に覆われて見えず残念でした。

この後、三島大社にお参りをして、いつもの通りに居酒屋で飲んでから解散でした。

25/11/11 街歩き 旧東海道小田原宿から箱根宿

今回は、御幸の浜交差点(小田原市/おおよそ標高10m)から箱根関所(箱根町/おおよそ標高730m)までで、歩行距離がおおよそ17kmでした。前回の大磯宿~小田原宿の時よりも気温は下がり、疲れや長さを感ぜずに歩けたと思います。

畑宿から甘酒茶屋までが初めてでしたが、畑宿までと、甘酒茶屋から先は、ハイキングだったりドライブで立ち寄ったりした場所を繋ぐ様に歩いたからでしょうか、長い距離を歩いた感じがしないのかとも思われます。

 

風祭の一里塚跡

国道1号線に沿って小田原の市街地をぬけ、箱根板橋駅を通り越し、二回線路を越えて風祭の一里塚跡に到着。この辺りに来たのも初めてで、風魔一族と何か関係があるのかと気にしながら歩きましたが、なにも見当たらずでした。


その先、街道は、箱根登山鉄道入生田駅を過ぎて、湯本駅の手前の三枚橋で、左手の早川を渡ります。

三枚橋は、元和四年(1618年)に、徳川幕府が、尾根道(湯坂道)から東海道を改め、早川と須雲川の右岸の沢沿いにトラバースする新しい街道を設けた分岐になります。

登山愛好家の一般的な感覚では、登山道は、尾根に上がってしまえば、比較的に安全で楽であると感じていると思います。ただし、尾根に出るまでが急登になりがちです。その急登を避けて、緩やかに登降するためには、斜面を長く横切る(トラバース)ように歩くことになります。(または、電光型にジグザグと折り返して登る。)その場合は、道も崩れやすく谷底に転落する危険の回避策や道の維持のための普請の手間も多くなりがちだと思われます。

街道を付け替えた理由がは何だったのだろうと気になります。

 

湯本茶屋一里塚を過ぎたところにあった湯本茶屋自治会設置の案内板

また、登山愛好家の一般的感覚として次のことも言えると思います。

トラバース道には、水場(その水が飲料に適するかは別にして)あり。

 

須雲川の集落に設置された案内板

須雲川の先で(上方よりで)須雲川を渡り、街道は、左岸に移ります。

きっと雨の後は、川の渡渉が困難な場合もあったでしょうから、この場所に集落があることの有り難味を実感した昔の旅人がいたのではと思えます。
集落ができたのは、寛永の頃と記されているので、寛永十二年(1635年)参勤交代制度が始まった頃と重なります。

 

畑宿の一里塚

明治時代の畑宿

畑宿は、小田原宿や箱根宿等の宿駅と異なる「間の村」「立場」になるのだと思われますが、「宿駅」と同じのような状況が、江戸時代の末には見られていたとのことですね。

交通量が多くなれば、それを支えるだけの人員物資の供給が必要になりますから、多量の水をたやすく得られる沢沿いの道が、尾根道の湯坂道に代わって官道になる一番の理由だったのかもしれません。

以前も紹介した、次のブログにこのことについて考察されています。

 

kanageohis1964.blog.fc2.com

 

畑宿から甘酒茶屋までの間が、傾斜が一番急で、人影も薄く今も寂しげな路でした。

甘酒茶屋の隣にある箱根旧街道休憩所の掲示

 

 

甘酒茶屋まで登ってくれば、残り元箱根までの間は、傾斜も緩み、外国人旅行者もたびたびすれ違うようになります。

 

元箱根から箱根関所までは、芦ノ湖を右手に杉並木を歩きます。

旧街道の杉の大木は立派ですが、外国人観光客にも多くすれ違う今の観光地でした。

これまでは、東海道の松並木でしたが、松ではなく杉が植えられたのは、気候のせいでしょうか?

箱根宿の設置は、街道が湯坂道から替えられた元和四年(1618年)と言われていて、他の宿駅よりも遅れての成立でした。

元和元年(1615年)大坂夏の陣が終わり豊臣家が滅んで、三年後。

東海道を設置した慶長六年(1601年)から十七年を経て箱根宿が成立したことになります。それまでの間は、具体的に箱根の山を越える様子はどのようなものだったのか?また知らないことが増えてしまいます。

成立した年月も確たる資料は残されていず、現在も他の宿場のように、『本陣』『脇本陣』『見付け』などの遺構の案内掲示もされず、違和感や不思議な気持ちが生じますね。

 

このあと、始発のバス停まで歩き小田原行きバスに乗車して、小田原の繁華街の居酒屋でまた飲んで解散でした。