ぶらっと恩田川

土いじり。時々、恩田川の散歩、街歩きに登山。

21/05/16 街歩き

山の会の大山街道を歩くシリーズ 曇天、時々小雨の降る中、第六回目に参加してきました。前回は、相鉄線相模大塚駅から小田急本厚木駅でした。今回は、本厚木駅から、相模川に沿って南下し、岡田交差点を右折し西に、小田急愛甲石田駅を経て伊勢原駅まで歩きました。

 

岡田交差点を右折し、相模川を後にして、大山の方へ。徐々に山が近くなります。明らかに勾配を感じる丘陵の端に来ると、古の残光が現れてきます。

 

 

愛甲三郎季隆(アイコウ サブロウ スエタカ)の墓石と言われる宝篋印塔(ホウギョウイントウ)がある西嶺山円光寺にて撮影。

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愛甲三郎は、頼朝に仕えた御家人で、二代将軍頼家の弓の師範も務めました。頼家が富士の牧狩りで鹿を射止めた際には、頼朝から季隆も褒められたといわれる弓の名人です。

頼朝死後、北条氏の幕府軍にいて、同じ御家人畠山重忠を弓で射ち、その首を北条氏に差し出したと言われています。しかし、1213年5月の和田合戦では、和田義盛に味方し、北条氏と争い討ち死にしました。

 

全く時代が異なりますが、このお寺のご住職を務められた織田無道さんは、昨年12月にお亡くなりになっています。

 

 愛甲石田駅の踏切を渡り、国道246号線を沼津の方へ進むと丸山城址公園に着きます。

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この城の城主は、発掘調査で、鎌倉時代から室町時代前半にかけてと、室町時代後半から戦国時代にかけての二つの時期の遺物が発見されおり、鎌倉時代では糟屋有季が、室町時代後半では太田道灌の主君の上杉定正に関係する城(館)が想定されるようでが、確たる資料はなく謎のままです。

 

 

 

 延喜式内社 高部屋神社

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丸山城址公園から246号線を陸橋で渡ると直ぐ神社の裏に通じています。

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本宮(元宮)が渋田川源流にあったり、汐汲み神事が残っていたりと古い信仰が残っている神社です。茅葺の屋根も珍しくなりました。

 

www.city.isehara.kanagawa.jp

 

 

 

太田道灌首塚

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 高部屋神社から渋田川へ下った場所にあります。

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太田道灌の『七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞかなしき』の故事は有名ですね。道灌が突然の雨のために蓑を求めたのに対して、無言で山吹の花を差し出した女性は、実在したのでしょうか?事実ならその場所はどこでしょうか?

道灌よりもこの女性の人生に興味を感じます。

 

1486年7月26日に太田道灌を相模糟屋館に招いて謀殺した道灌の主君である上杉定正は、その後、本家にあたる山内上杉家関東管領上杉顕定と争い始めました。そして、1494年10月2日、北条早雲の援軍を得て埼玉県寄居の鉢形城の顕定を打つために出陣した際に、荒川を馬で渡渉中に、落馬し死去しています。

その後、後北条氏徳川氏と殿さまが変わっても、この近隣の人々は、高部屋神社の神事を続けながら、一人一人は何を思いどんなふうに一生を全うしたのでしょう。