ぶらっと恩田川

土いじり。時々、恩田川の散歩、街歩きに登山。

21/12/26 街歩き 平塚市博物館

多摩丘陵の成立過程について知りたくて『 秋期特別展 神奈川の大地 一億年の記憶 』を見てきました。以下、私が理解した神奈川県の大地の成立過程をまとめてみました。

今から、500万年前の神奈川県。

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現在の伊豆半島や丹沢のある場所は、フィリピン海プレートの上に有り、プレートと一緒に北西方向に移動して、500万年前に後に丹沢になる場所が本州と衝突しました。

その頃、三浦半島のつけ根の葉山あたりから房総半島の峰岡の辺りが隆起し、その北側、今の多摩丘陵から三浦半島付け根あたりは、逆に沈み込み海の底でした。

そして、へこんだ今の多摩丘陵辺りに堆積物が積み重なりました。

〔 私は、いままで、丹沢山地は、ユウラシアプレート上にあって、フィリピン海プレートに押し付けられて隆起したものと理解していました。間違っていましたネ。]

 

200万年前

f:id:cskdm933:20211227181330j:plain現在丹沢がある場所は、更に本州へ押し付けられ、高尾山や景信山のある場所が隆起し、小仏山地が出来ました。

多摩丘陵はまだ海の底で、葉山から峰岡まで辺りが隆起するのとは逆に沈み込み、海の底で土砂が堆積していきました。

そして、プレートの境界(ユーラシアプレートの下に、フィリピン海プレートが沈み込む場所?)が、丹沢山地の南へ移動したと考えられているそうです。

 

100万年前

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今の伊豆半島が、本州に衝突します。それまでは、平坦だった丹沢の辺りは、急激に隆起を始め山地に変化します。また、多摩丘陵も隆起し始め、このころ陸地化したと考えられています。

 

40万年前

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箱根が誕生してきます。箱根火山は、噴火形態を様々に変化させながら、風下の北東方向(相模平野や多摩丘陵)へ火山灰を降り積もらせました。この灰が関東ローム層になりました。また、この頃、沿岸部では氷河期と間氷期の水位の変化のために、海岸線が変化し、海と陸の環境が繰り返されていました。

(この絵図で注目するのは、相模川が東の方向へ、今の多摩川の方向に流れていることです)

 

30万年前

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大磯丘陵の西側が隆起し始めて、陸化しました。

(水の流れが南に向かって流れるようになり、今の相模川と同じ方向に流れ始めています)

 

13万年前

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最終間氷期(縄文海進期の一つ前の温暖期 別名 下末吉海進期)にあたり、低地は海の下に沈んでいます。

箱根山は爆発を繰り返し、風下に火山灰を降らせて下末吉ローム層を形作りました。

 

2万年前

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7万年前から2万年前は、最終氷期と呼ばれる寒冷期にあたります。

海岸線は、現在より標高が120m以上低く、今の海岸線より遠くの沖合にありました。

一方、陸上は浸食によって深い谷部が出来上がりました。

大きな相模川が流れる県の中央部には扇状地が広がり、大河の浸食による段丘地形を形作りました。

 

7000年前

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7000年前は、縄文海進があった頃です。この頃は、暖かな気候で、海面上昇によって入り江が、内陸の奥まで侵入しています。平塚も横浜も、新横浜駅辺りまでも、この頃は海の底です。

また、今の平野部は前の時代に刻まれた谷がこの時代に堆積物で平らに埋められて出来上がりました。



多摩丘陵についてまとめると。

多摩丘陵がある場所は、フィリピン海プレートが進む方向(北西方向。丹沢山地や小仏山地のあたり)より東側に外れているために、隆起が少なかった。

100万年前、伊豆半島が本州に衝突。同じころに多摩丘陵が隆起し陸地となる。

30万年前、相模川が南に進路を変えて、大きな川の流域にもならずに多量の土砂の流入も受けず、小さな流れによる浸食のため、狭く小さな谷戸が葉脈の様に出来上がった。と言う事なのかな。

最後までお読みいただきありがとう。間違えがあったり思い込みだったりするかもしれません。

相模川の流路が以前は東に直進していたことを知れたのは見に行って良かったと思いました。

今度、相模川が東に直進していた痕跡を探しに散策してみようと思います。