12/21に投稿した記事で、50万年前相模川が東に流れていたという記事を記載しました。早速、相模川が小仏山地と丹沢の間を流れ下り、相模原台地に出て相模湾に向かって南に方向を変える辺りを歩いてきました。
相模川の右岸にある城山(津久井城址)は、三角おにぎりのような形をしているので目に留まりやすい山です。
本丸跡から相模川の上流を見渡せます。
写真の下の中央に架かる橋を渡り、対岸の小仏山地へ登り返し、鉄塔が建つ下を通り高尾に行くことが出来ます。
相模川をせき止めて出来た津久井湖を渡り、津久井城址のある城山を振り返ります。
対岸の小仏山地の峰の途中に峰の薬師が有ります。
富田常雄の小説『姿三四郎』で、主人公が他流試合の決闘の場所の一つとして描いた所だそうです。
峰の薬師から、津久井湖と城山、奥に広がるのが相模原です。
ここから山地の谷を流れ下った川が平野にでる所、三角形に広がるの相模川の扇状地の頂点(扇頂)が眺められます。
中腹にある峰の薬師から更に登り尾根筋の道に出ます。
分岐等の要所には案内表示が設置されています。今回は、大垂水峠に向かわず高尾へ。
途中、尾根道から城山湖を見下ろすことができます。
遠くに新宿の高層ビル群、ダム湖から奥に広がるのは多摩丘陵です。
関東山地(小仏山地)が尽きて、多摩丘陵がはじまる境界にあたる場所ですネ。
城山湖は、神奈川県内の四つのダム湖の一つです。ここの水は、津久井湖の水をくみ上げ、電力不足の際に放流して(地下パイプで津久井湖へ流す)、発電する揚水式発電のための貯水池になります。
津久井湖のダムは城山ダム。城山湖のダムは本沢ダムです。ややっこしいです。
本沢ダムがある谷は、境川水系(相模川と同じく相模湾に至る川)で、尾根を挟んで逆の西側は、多摩川水系の榎窪川です。草戸山は、多摩川水系と相模川水系の分水嶺の尾根の小ピークになります。
草戸山の辺りは、湖畔に車を駐車して登ってくる人が見受けられますが、そこを過ぎると人影が薄くなります。小さな登り下りが繰り返されますが歩きやすい尾根です。
尾根は高尾駅の方まで続きますが、ここで左に折れ、京王線高尾山口駅に下りました。
この道は。高尾山薬王院と峰の薬師を繋ぐ尾根道で、きっと昔は、薬王院と峰の薬師の行者が何度も行き来しただろうと想像してしまいます。
峰の薬師から高尾山口駅まで歩行時間は、二時間半でした。
50万年前に相模川が東に直進していた痕跡は、その時代の上流にあった岩石の角が取れ、丸くなった石が積み重なっている地層(御殿峠礫層)が、多摩川の右岸(南側)まで伸びているのが分かっているからだそうです。
城山(津久井城址)の本丸当たりにも、御殿峠礫層が残っているとのことで、今回城山を登りましたが、実物を見ることはできませんでした。ただ、これまでテーマとしていた多摩川水系(鶴見川水系など東京湾へ流れる水系を含め)と相模川水系(境川等の相模湾に流れる水系を含む)の分水嶺を歩くことが出来て良かったと思います。
なお、12/31投稿の記事で、『北米プレート』を『ユーラシアプレート』に訂正しました。
相模川が東側に流れていた50万年前は、現生人類(クロマニヨン人)誕生の前、旧人(ネアンデルタール人等)が誕生した時期だそうですからとんでもないくらい昔です。そんな昔のことを調べて事実を明らかにする作業に日時を割いていく研究者の熱意に頭が下がります。