神奈川宿を過ぎ、街道は丘陵の南端に沿い浅間神社下を通り、しばらく進むと、芝生村の追分に出ます。

八王子道は、江戸末期、横浜が開港すると、江戸の問屋を通さず直接交易を行う新興商人が、生糸の集積地の八王子と外国商人の居留地の横浜との往来に使った道です。
幕府が設置した五街道とは異なり、庶民の道です。神奈川往還とも八王子街道とも呼ばれ、正式な名前があったわけではないのも、庶民が通った道らしいと思います。
内陸の村々から年貢や薪炭等の物資を神奈川湊や保土ヶ谷へ運ぶ馴染みの生活の道だったと思います。(『絹の道』や『シルクロード』は、交通機関が発達し、すっかり忘れ去られた時代になって、再発見した人が付けた名前ですね。当時、使っていた名称ではないです。)
旧東海道は、芝生村の追分で丘陵と別れて、帷子川の平地を進みます。

江戸方見付を過ぎ宿内に入り、現在の天王町駅辺りにあった帷子橋を渡ります。
帷子川を背にして進み、今井川の左岸をしばらく行くと、左手に金沢八景や鎌倉に向かう鎌倉街道下の道の分岐があります。

帷子川と今井川の合流地点にある保土ヶ谷宿は、慶安元年(1648年)に、今井川のさらに上流地(現在の元町)から、今から考えるとわざわざ水害が予想される下流の低地に移されています。
理由は、明らかになっていないのだそうですが、当時は水害の危険性があまりなかったのか、鎌倉街道の分岐に近い方が、人の流れが多いからかもしれません。
保土ヶ谷区役所のHpに、名主の軽部家所蔵の絵図が載っています。
絵図を見ると、単純に、元町では手狭になったから、平地のある場所に移ったのでしょうか?
街道は、旧元町橋で、今井川の右岸に渡るとすぐに、丘陵上へ登る権太坂の登り口になります。

年末の箱根駅伝の中継で放送される現国道1号は、歩いたことがなくとも見慣れたまた聞きなれた場所ですが、写真のここが、元々の『権太坂』登り始めです。

登り始めの近くに設置されている基準点の標高は、20.3mで、登りきった境木地蔵尊近くの三角点の標高は、86.8mで、約1600mで、66.5m登ることになります。

境木地蔵尊から戸塚宿までは、5.5㎞あるので、江戸を遅く出た旅人などは、保土ヶ谷宿で泊まることも多かったでしょう。ブログもここで一旦区切ります。