
街道は、境木地蔵前から少しのところで、武蔵国と相模国の分水嶺である尾根道を外れ『焼餅坂』で、境川の支流の柏尾川水系に下ります。
柏尾川水系のひとつの源頭まで下った後、登り返して尾根道を行けば、一里塚につきます。


一里塚のある周囲も開発の波が迫っていますが、まだ、面影が残っています。


一里塚からしばらくの間、丘陵の上を街道は通りますが、急な品濃坂を下りきると、柏尾川沿いの平地になります。
戸塚宿の手前の大橋を渡るまでは、左手の丘陵地の裾を柏尾川に合わさる支流を二度越え、江戸見付と吉田の一里塚を過ぎ、大橋で柏尾川を渡れば戸塚駅に到着です。



柏尾川沿いは、住宅・商業施設・工場地帯で、昔の面影を感じることはできません。
武相国境から戸塚宿までの地誌について、以下のブログを参考にしています。
家康の関東移封の前、藤沢から保土ヶ谷への道筋を考えた場合、標高は低いですが、相模と武蔵との国境の尾根を越えるとき、途中の水の確保は心配を要さずと判断すれば、尾根に取りつき尾根を下る道筋で、標高の低い高低差の少ない峠・場所を越えるのが楽と考えると思います。(標高が低く明瞭な峠は実際はないですけど)
戸塚宿は、藤沢や保土ヶ谷に遅れること三年、慶長九年(1604年)にできたのですが、戸塚宿ができる前も、同じ道筋だったのか、その三年間、東海道はどこを通ったのか、細い川が流れ込む複雑な地形の場所へ街道を整備した意図や決定した現場責任者がだれか等気になります。
自分が現地責任者になり、一人二人の少人数ではなく、今の国道の役割や軍事の面も考慮して街道をどのように開通させるかいろいろ想像するのも楽しいものです。
次のサイトも、明治末の測量地図が参考になります。