ぶらっと恩田川

土いじり。時々、恩田川の散歩、街歩きに登山。

25/07/21 街歩き 旧東海道 戸塚から平塚 その二 藤沢~平塚

街道は、影取町を過ぎ、一里塚や見付のあった辺りから、両側が崖の切通しを下り、境川に突き当たる所で西へ折れ、本陣等のあった藤沢宿の中心地に至ります。

街道を直角に三回曲がるように整備し、西からの敵の進軍を少しでも遅らせることを意図していた事が分かります。

 

これまで歩いた道を藤沢から神奈川まで逆に思い返すと、進むことを拒む小さな仕掛けがあったと思います。

ここ藤沢宿境川を渡った先に『桝形』があり、先を見通せない。桝形を出て尾根に上がる道は、長い直線の切通しの登りで、両側の崖上からの攻撃を受ける。戸塚宿の先の柏尾川を越えた辺りは、複数細い川が流れ込む湿地帯、品濃坂と境木地蔵の登りは、急な登りで、坂の上からの待伏せ攻撃、神奈川宿の洲崎大神前は、尾根の突端(岬)にあり、海が迫り、狭い陸地を抜けると寺社が沢山配置され、武者を留めて侵攻を防ぐ、小さいですが、防衛線が二重三重に設けられていると思います。

関東移封の直後、神奈川と藤沢の間に、影取の東に本多正信玉縄城、戸塚宿の柏尾川の上流の岡津に彦坂元信の岡津陣屋を配置していることも、敵の来襲を想定して整備をしていたと思えるのです。

 

 

話は、急に江戸時代から飛んでしまいます。

馬入川(相模川)を渡ると、平塚市(25/07/01付推計人口数 257,853人)です。

平塚駅北口)

馬入川の東側の茅ヶ崎市(同上推計人口 245,083人)や、藤沢市(同上推計人口 443,682人)に比べて、首都圏の郊外(住宅地)感が薄くなる気がします。

北口駅前広場の雰囲気だけの感覚的なものでしたが、後から調べて思うに、明治以降の軍事工場の設立があるからだと思います。

 

大正12年(1923年)頃の平塚の地図】

ktgis.net

平塚駅の北側に、明治38年(1905年)火薬製造工場ができ、宿場町としての歴史に加え軍需産業との関わりが始まり、終戦後は、工場跡地に様々な製造業が流入することになります。そのため、平塚で働き、平塚に住む。または、北隣の伊勢原市秦野市から通勤する方もいただろうと思われます。

日本火薬製造 - Wikipedia

snposc.org

 

平塚駅についてから、居酒屋で次回の東海道街道歩きの日程相談をして、解散となりました。

次回は、平塚から小田原まで、一ヶ月飛ばし九月予定。少しは気温が下がっているでしょうか。