
平塚駅の北に鎮座する平塚八幡への参拝からスタートしました。
当日は、曇り空。これまでの強い日差しの極暑よりも歩きやすいと油断してしまってか、後半の二宮から小田原までの間は、少し動悸がして、頭も回らず、写真も上手く撮れなかったのですが----。
今回の投稿は大磯宿までを投稿します。
平塚八幡から少し行くと、平塚宿江戸見付跡があります。
見付は、通常、江戸側と京側の宿の両端に設けられると思うのですが、東海道の利用が活発になるに従い、江戸見付の東側の村々が、新宿として加宿されたために、ここは東端ではなしに、宿の中程にあったことになります。


江戸見付跡から西へ1.2㎞。
国道1号との合流地点に、国交省が建てた平塚宿京方見付跡石碑があります。
家康関東移封(1590年)の十年後、慶長六年(1601年)に東海道平塚宿が始まり、その後、慶安四年(1651年)に平塚新宿が加宿され、平塚宿は、東側に伸びたことになります。
平塚市域の東海道は、明治以降の工場進出よる市街地化や太平洋戦争の空襲、その後の区画整理のため、一度だけの街歩きですが、たぶん何もかもが平たく均されてしまっていて、昔の街道の面影を、今もとどめている場所を見つけることはできませんでした。
この京方見付跡も推定地とのことです。
今昔マップでこの碑の設置場所を見ると、道路の向かい側は、神奈川県大磯町高麗三丁目となり、花水川を河川改修で直線的に整地したため、平塚市域に取り残された大磯町の飛び地になっています。
今昔マップの『首都圏』をクリックし、明治20年測量の地図で見ると、碑が建つあたりに、花水川が蛇行した後らしき小川が記されています。
たぶん江戸時代には、花水川の本流の渡渉、その後に京見付が設けられており、平塚宿への門だっただろうと想像できます。
いまは、江戸見付跡から、ここまでただただ真っすぐな道で、昔の地図を見て想像するしか、江戸へ向かう敵を妨ぐ工夫は見つけられません。ただ平塚に限らず、人が集住する平地は、戦災がなくとも土地が開削されて、街道の昔の面影を見つけることは難しいだろうと思いました。
今昔マップを見てもう一つ気づいたことは、隣の宿場である『大磯宿』と御殿が造られた『中原』と、徳川関東移封の前から、河川と海上の交通の要衝で相模川の河口に位置する港『須賀』を結ぶ三角形の中心に『平塚宿』があることです。
唐突に『中原』や『須賀』の地名が出てくるので戸惑うと思うのですが、神奈川県内の東海道について考えるとき、平塚から港区虎ノ門を結んでいる中原街道との比較を通して考えてみると、何時かまた何か記事が書けるのではと思っています。

国道1号線花水川橋から撮影
写真左の丘は、高麗山(コマヤマ)標高168m。
奧は、丹沢山地で、相州大山を望むことができると思うのですが、低く垂れ込む雲の中でした。

高麗山を背に国道1号に面し鳥居が建つ高来(タカク)神社。
奧の拝殿から高麗山への道が続くハイキングコースがあり、上に上社があり、山自体が信仰の対象です。相州大山も、中腹に下社があり頂上に上社があるのも同じです。

古くからの信仰の地である高麗山。
上の写真の略縁起によれば『高来(タカク)神社』と言う名称は、明治の廃仏毀釈の嵐が収まったのちの明治三十年に改称されたもの。その三十年の前は、高麗(コマ)権現社と称していたとのことです。養老元年(717年)行基の創建と言われる高麗(コウライ)寺と神仏混合して、中世には大いに発展したのが、高麗寺は廃仏毀釈により廃寺になっています。
旧東海道は、化粧坂の信号で国道1号線から右に分かれ、ゆるやかな登りになります。両側に土手があり、土手の上には木々が茂り、昔の街道の面影が残った場所です。

化粧坂の信号から、JR東海道本線の下を地下道で横切り、大磯宿の江戸見付跡を過ぎ、再び、国道1号線に合わさるまでの間が、ゆっくりと歩ける唯一の場所でした。
たぶん通行の邪魔になると言われて切り倒されてしまいそうな松が残されています。旧東海道の雰囲気を残そうとする地域の意思が感じられる所でした。
街道の雰囲気を残す道が再び国道1号と合わさってからしばらくで大磯宿本陣跡に至ります。

今回はここまでとします。