ぶらっと恩田川

土いじり。時々、恩田川の散歩、街歩きに登山。

25/11/11 街歩き 旧東海道小田原宿から箱根宿

今回は、御幸の浜交差点(小田原市/おおよそ標高10m)から箱根関所(箱根町/おおよそ標高730m)までで、歩行距離がおおよそ17kmでした。前回の大磯宿~小田原宿の時よりも気温は下がり、疲れや長さを感ぜずに歩けたと思います。

畑宿から甘酒茶屋までが初めてでしたが、畑宿までと、甘酒茶屋から先は、ハイキングだったりドライブで立ち寄ったりした場所を繋ぐ様に歩いたからでしょうか、長い距離を歩いた感じがしないのかとも思われます。

 

風祭の一里塚跡

国道1号線に沿って小田原の市街地をぬけ、箱根板橋駅を通り越し、二回線路を越えて風祭の一里塚跡に到着。この辺りに来たのも初めてで、風魔一族と何か関係があるのかと気にしながら歩きましたが、なにも見当たらずでした。


その先、街道は、箱根登山鉄道入生田駅を過ぎて、湯本駅の手前の三枚橋で、左手の早川を渡ります。

三枚橋は、元和四年(1618年)に、徳川幕府が、尾根道(湯坂道)から東海道を改め、早川と須雲川の右岸の沢沿いにトラバースする新しい街道を設けた分岐になります。

登山愛好家の一般的な感覚では、登山道は、尾根に上がってしまえば、比較的に安全で楽であると感じていると思います。ただし、尾根に出るまでが急登になりがちです。その急登を避けて、緩やかに登降するためには、斜面を長く横切る(トラバース)ように歩くことになります。(または、電光型にジグザグと折り返して登る。)その場合は、道も崩れやすく谷底に転落する危険の回避策や道の維持のための普請の手間も多くなりがちだと思われます。

街道を付け替えた理由がは何だったのだろうと気になります。

 

湯本茶屋一里塚を過ぎたところにあった湯本茶屋自治会設置の案内板

また、登山愛好家の一般的感覚として次のことも言えると思います。

トラバース道には、水場(その水が飲料に適するかは別にして)あり。

 

須雲川の集落に設置された案内板

須雲川の先で(上方よりで)須雲川を渡り、街道は、左岸に移ります。

きっと雨の後は、川の渡渉が困難な場合もあったでしょうから、この場所に集落があることの有り難味を実感した昔の旅人がいたのではと思えます。
集落ができたのは、寛永の頃と記されているので、寛永十二年(1635年)参勤交代制度が始まった頃と重なります。

 

畑宿の一里塚

明治時代の畑宿

畑宿は、小田原宿や箱根宿等の宿駅と異なる「間の村」「立場」になるのだと思われますが、「宿駅」と同じのような状況が、江戸時代の末には見られていたとのことですね。

交通量が多くなれば、それを支えるだけの人員物資の供給が必要になりますから、多量の水をたやすく得られる沢沿いの道が、尾根道の湯坂道に代わって官道になる一番の理由だったのかもしれません。

以前も紹介した、次のブログにこのことについて考察されています。

 

kanageohis1964.blog.fc2.com

 

畑宿から甘酒茶屋までの間が、傾斜が一番急で、人影も薄く今も寂しげな路でした。

甘酒茶屋の隣にある箱根旧街道休憩所の掲示

 

 

甘酒茶屋まで登ってくれば、残り元箱根までの間は、傾斜も緩み、外国人旅行者もたびたびすれ違うようになります。

 

元箱根から箱根関所までは、芦ノ湖を右手に杉並木を歩きます。

旧街道の杉の大木は立派ですが、外国人観光客にも多くすれ違う今の観光地でした。

これまでは、東海道の松並木でしたが、松ではなく杉が植えられたのは、気候のせいでしょうか?

箱根宿の設置は、街道が湯坂道から替えられた元和四年(1618年)と言われていて、他の宿駅よりも遅れての成立でした。

元和元年(1615年)大坂夏の陣が終わり豊臣家が滅んで、三年後。

東海道を設置した慶長六年(1601年)から十七年を経て箱根宿が成立したことになります。それまでの間は、具体的に箱根の山を越える様子はどのようなものだったのか?また知らないことが増えてしまいます。

成立した年月も確たる資料は残されていず、現在も他の宿場のように、『本陣』『脇本陣』『見付け』などの遺構の案内掲示もされず、違和感や不思議な気持ちが生じますね。

 

このあと、始発のバス停まで歩き小田原行きバスに乗車して、小田原の繁華街の居酒屋でまた飲んで解散でした。