富士山に愛鷹山と箱根、伊豆の天城山に囲まれたこの地域の基礎知識として、最初に富士山の噴火歴を記します。

【監修:伊豆半島ジオパーク推進協議会 設置・管理者:三島市商工観光課の案内板を撮影】
1707年 宝永噴火
噴火による降灰は、西風により富士山の東側、御殿場や小田原、江戸に多く降り積もりました。噴火直後の降灰による直接的被害だけでなく、その後数年にかけ土砂の流入による川底の上昇による洪水(酒匂川や花水川)やため池の貯水量の減少(町田市薬師池)等の影響もありました。
狩野川の支流の黄瀬川流域が、御殿場市や裾野市を流れ、三島市や沼津市に至るためこの地域にも被害があったのではと思うのですが、そうした記事を見つけることが出来ませんでした。
1020年 『更級日記』等
「山頂からの煙と夜には炎を見る。」足柄峠を越えて「関山」に滞在し「横走り関」を通過と記される。864年から866年 貞観噴火 『日本三代実録』 溶岩が流れ出し湖が埋まる。(富士五湖)800年から802年 延暦噴火 『日本紀略』 足柄路が通れず箱根路を開いた。(短期間だけで、足柄道がしばらくして開通。)
更級日記には、三島大社の記述は無く、筆者達一行は、三島社を目にする事無く京に向かったと思われます。一行が箱根を越えるために、要した日数は記されていないので想像ですが、山越えに関わる人足集めや休息宿泊、食事の提供の機能を「関山」が担っていたと思われます。
時代がずっと下り明治時代に、東海道線が国府津、沼津間(今の御殿場線)に敷設されたときに、三島を通らず、三島の町がさびれたように、箱根を通過する交通手段とそれに伴う経路により、三島と沼津の賑わいが左右される状況は、今も同様だと思われます。
2900年前 御殿場岩屑(ガンセツ)なだれが起きる。1万年前 三島溶岩流 現三島駅近くまで続く溶岩流。
岩屑(ガンセツ)なだれで流れ出た土砂は、御殿場市域を埋め尽くして、あふれ出た土砂が、一つは酒匂川を下り小田原まで、一つは三島、沼津にまで至り、現在の地形ができました。また、三島溶岩流の溶岩の中を伝い富士山東麓から箱根西麓、愛鷹山北麓から西麓の広範囲の降雨が集まり三島の豊富な湧水群(柿田川等)を形成しました。
以上のように、この地域の特色は、火山灰土の土地、また、東西交流の障壁である箱根の麓であると言えます。
三島や沼津では澄んだきれいな水が得られる一方で、水はけ良く、水を貯めておくことが難しいので稲作には難がある土地であると思います。
東海道から外れていますが、岩屑(ガンセツ)なだれに覆われなかった狩野川の中流域の韮山などは、広くはないですが、沖積平野があり水が抜けずに、米作りに向いた土地で、三島・沼津とは性格を異にする土地柄があると思われます。
また、狩野川の舟運については、調べていませんが、沼津と韮山はこの点では共通があり、三島にはないと言ったように、三者三様と言うのか、AとBの共通点がCには該当せず、BとCの共通点がAに該当せずと、三者三様全くバラバラではなく、でも、三者共通の事柄も見つけられないといった特徴があるのかなと言うのが今の感想です。
次に、沼津城を含めてこの地域の政治権力の中心地の変遷を記します。

平安時代末期
源頼朝がのちの鎌倉幕府執権となる北条氏の支配地(蛭が小島・韮山の辺り)に流される。
南北朝時代
韮山に堀越公方(鎌倉府の後身の一つ)が本拠地を置き、伊豆国を支配する。
南北朝時代末期(戦国時代初期)
伊勢新九郎盛時(後世の北条早雲)が、駿河の国主今川家の武将として興国寺城(沼津市)を与えられ、堀越公方や関東管領上杉氏との争いに加わる。
早雲が戦に勝利し、堀越公方を排除、伊豆一国を支配下にした後に韮山に本拠を移す。その後、相模国も支配するに至って小田原に本拠を移動するが、小田原を息子に任せ、早雲自身は、韮山を離れず韮山にて死去する。
この地域が駿河の今川氏と後北条氏の領地の境界域になる。
戦国時代
1560年(永禄三年)義元の死後、今川氏の勢力が衰え、駿河国は、徳川家康、武田信玄の侵攻を受ける。幾度かの戦の後、黄瀬川・狩野川の西側は武田領に、武田氏に対抗した後北条氏は東側を支配、互いに敵対し、この地域が分断される。(境界線の強化)
1579年(天正七年)武田勝頼は、敵対する後北条氏への対策として沼津に三枚橋城(後の沼津城の前身的な城)を築く。
1582年(天正十年)天目山で武田氏滅亡後、駿河国の支配は、徳川家康が担うことになり、居城として駿府城の築城を行う。
三枚橋城には、松平忠吉(家康の四男)が四万石で城主になる。(幼少の城主の後見は松井(松平)忠次)
1589年(天正17年)に駿府城が完成する。
1590年(天正18年)小田原征伐の後、秀吉の命により家康は関東へ移封され、駿河国は豊臣家家臣の中村一氏(カズウジ)が配置される。
伊豆国は家康の領地となる。(沼津は豊臣領、三島と韮崎は徳川領)
1590年(天正18年)伊豆国の韮山には、家康の家臣、内藤信成(家康側近・家康異母弟)が韮山城主になる。また、同じころに三島には伊豆代官所(三島代官所)がおかれ伊奈(熊蔵)忠次が配置され、伊豆七島を含めた伊豆の大半の占める天領を治める。
1595年(慶長元年)韮山に韮山代官所が設置され伊豆国の幕府直轄領の支配を行う。
その後【1759年(宝暦九年)】には、三島代官所を吸収合併し、伊豆、駿河、相模、武蔵甲斐の天領を統括するようになった。
1600年(慶長五年)関ヶ原の戦い
江戸時代
1601年(慶長六年)韮山城主の内藤信成が駿府城主になり、家康家臣の大久保忠佐(小田原城主大久保忠世の弟)が三枚橋城主になる。内藤信成は、家康が将軍職を退き、駿府城へ移るまで、駿府城の城主を務めた。
1614年(慶長19年)忠佐死後に沼津城が廃城する。
1759年(宝暦九年)韮山代官所が、伊豆のみでなく三島代官所の役務地である駿河、相模、武蔵、甲斐の天領も統括する事となる。
1777年(安永六年)沼津藩が水野忠友により立藩される。(水野沼津藩誕生し沼津藩領と幕府直轄領等に再度分断)
王政復古の大号令の後
1868年(慶応四年)徳川家達が駿府藩主となり、沼津藩主の水野忠敬は上総菊間藩へ移封される。
1868年(慶応四年)伊豆(伊豆諸島含む小田原藩領、旧沼津藩領などを除く)と駿河、相模、武蔵、甲斐の幕府領、旗本領が韮山県となり県知事に江川英武がつく。同年、相模は神奈川県として分離される。
1871年(明治四年)廃藩置県 韮山県が解体される。伊豆と相模に足柄県が設置され県庁が小田原に置かれる。
1876年(明治九年)足柄県廃止。神奈川県(相模)、静岡県(伊豆)に分割される。
1878年(明治11年)伊豆諸島が東京府に移管される。
その後、東海道線の敷設や東名高速、新幹線開通等を記していくと長いので、これくらいにして、以下感想です。
一つは、東海道街道歩きから外れますが、韮山代官所の江川氏の力の源泉が何であったのだろうと思いました。その答えは時間足りず、今後まとまりましたら記載できるかも?
もう一つ、沼津・三島・韮山の一方を立てると他方が立たなくなるような関係性がなぜ生じるのかという疑問です。三か所の位置が、三角形になっており、たぶん、一つのベクトルがあると、二つはその影響を受けますが、残りは外れる関係が生じてしまい、もし、一列に並んでいれば、強い弱いの違いが生じても、ベクトルの方向は同じであって、三か所のまとまりが生まれると思うのです。たぶん、韮山(伊豆半島)から、三島と沼津に両方に強い影響力が生じるとまとまるのかなと思えてきました。この地域、とても興味深いと思いました。
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