碑文
「本堰ハ江戸中期ヨリ青砥及ビ佐江戸ニテ築キ
永ク灌漑ニ寄与セシモノナルガ
大正十二年ノ大地震ニテ被害ヲ蒙リ
翌十三年當時近代式築造萬代堰ト命名ス
然乍ラ時代ノ推移ニ伴イ
昭和二九年捲キ上式ヲ以テ之ヲ改修
用水ニ万全ヲ収メツツアリシメル所
今般恩田川ノ改修ニ伴イ堰ノ移動トナリ
九百二十余万円ノ巨費ヲ投ジ
近代装備ノ粋ヲ蒐メタル自動堰ガ現在地ニ竣工見ル近隣其ノ類ヲ見ズ
実ニ万代不易永ク灌漑ニ支障ナカルベク
茲ニ沿革ノ一端ヲ記シテ後世ニ傳ウ
昭和四十一年九月」
昭和41年の碑文だけど、古めかしい文体ですね~エ。
灌漑のために堰を維持してきた歴史があったんだね。
上流の小山町に堰を設けて、用水路を通り、田んぼに水を引いたわけだ。
谷本川の上に用水を通す橋があったとどこかで読んだ気がするが?
佐江戸の田んぼに水を引くのだったら、
川の左岸沿いに用水路を掘ったら楽に思えるがなんか訳があったのかね?