川崎学双書シリーズ1
著者 村田 文夫
を購入して読んでみたよ。
その中で、ロウバ地名について少し記載されてたよ。
野馬でも、傾斜度が35度以上あると駆け登れないとのことだから、
谷戸地形を利用して馬を込める・籠める場所として
利用していた可能性を指摘してたよ。
「発掘された鶴川遺跡H地点の角柱穴列とH地点周辺の地形と推定・馬寄せ場遺構」を具体例として紹介してるね。
台地の上に、居住跡と角柱を一列に
最大54メートル、2.4メートル間隔で柱を立てた跡があり、
幅40~50メートル長さ2キロメートルの細長い谷戸の一部に
谷戸と台地を繋ぐように、長さ20メートルの掘下げた切面も発掘されていて、
そこが、谷底で放牧していた馬を一旦集める場所としていたと
推定してるんだね。
鶴見川の支流の恩田川のそのまた支流の梅田川に、
ロウバ地名があることは、前に載せたね。
もしかしたら馬を飼育してたのかな~?
もう一つ、れきはくの図書室で、
梅田川の入り口にあたる台地の上の
「三保天神前遺跡」の発掘調査報告書もさーっと読ませてもらったよ。
縄文時代の遺跡の後、ずーっと時代が下って
奈良時代の住居跡が二つ発見されてたんだね。
コピーはとっていないから間違っているかもしれないけれど、
口分田を割り当てられた家族が住んでたと推定してあったよ。
もしかしたら馬飼いの家族だったかもね?
水が不便な台地の上から
もっと水が手に入りやすい場所に家を建てて暮らす時代は
何時頃だろうかね?
奈良時代もまだ台地の上に暮らしていたことは事実だね。