ぶらっと恩田川

土いじり。時々、恩田川の散歩、街歩きに登山。

24/02/09 街歩き 甲州街道 日野橋

加入している登山の会の甲州街道歩き(二回目)に参加しました。一回目は、私は不参加でした。

 

今回は、府中駅京王線)から高尾駅(JR)まで約23㎞を歩きました。

 

写真は、甲州街道が、多摩川の左岸から右岸へ渡る地点で、渡し場があったところです。街道は、多摩川を渡ると日野宿へ入り、更に多摩川の支流、浅川を渡り八王子宿へと続きます。(手ブレでピントが合ってないです。丹沢の大山をバックに多摩モノレール)

 

地形のことだけで言えば、多摩川を渡らずに、川の北側(左岸)に沿って、立川、拝島、青梅、丹波山、塩山、甲府へと道(青梅街道)たどれば、比較的平坦で歩きやすいと思うのですが。

八王子、高尾、小仏峠(標高548m)を越えて、今度は、相模川に沿って、大月、笹子峠(標高1096m)を越えて勝沼甲府盆地に降りるルートが選ばれ、発展し、メインの街道になったのは、何故かなと考えてみました。

 

関東平野甲府盆地をさえぎる秩父、奧武蔵、奥多摩と連なる長い長い関東山地を横断する道で、一番歴史があるのは、碓氷峠越え(中山道)ですが、江戸から一旦高崎へ北上し、迂回するルートは、甲府をめざすには遠回り過ぎです。

 

一つ南側の道は、奥秩父雁坂峠(標高2082m)を越えて秩父、飯能に下る秩父往還がありますが、冬季に雁坂峠を越すのは大変だったでしょう。大きく重い荷を運ぶのは無理かなと思います。それに、碓氷峠より短距離ですが、やはり甲府ー江戸間で考えると遠回りです。

 

丹波山村大菩薩峠(1897m)を経由する道(青梅街道)と、小仏峠笹子峠を越える道(甲州街道)とを比べたときに思うのは、根拠を示すことができいませんが、想像するに、戦国時代から武田氏の外様大名的な郡内小山田氏の拠点が大月にあって、経由する所々に人口集積があり、食料や馬、宿所の提供が可能な状況が、関東移封以前から有り、それを生かしたから。(大月には、小山田氏が籠って滅ばされた岩殿城があります)また、丹波山経由より比較的温暖で、雪も早くに溶けそうです。

 

富士山の参詣の道も兼ねていて、その需要もあり大月から甲州街道と別れ、富士山を目指す人が古くから歩いていたと思います。

 

千人同心の存在が大きいから。家康は、信長とともに武田氏を滅ぼした(1582年)後に、武田の遺臣を召し抱え甲府を守らせました。

徳川家が関東移封(1590年)となってからは、小田原北条氏の支城だった八王子城下に集住させました。

その後、文禄二年(1593年)に甲府城が完成すると、八王子城が廃止されて、城下から千人町等に移住しています。

この千人同心が八王子に住んだことで、甲府と八王子の往来が盛んになっていったと思います。八王子千人同心の故郷は甲州ですから、何かと郷里に帰る機会があって、このルートを何度も歩いただろうと想像できますね。

 

千人同心の居住地は、八王子だけではなく、北は所沢、西は相模湖あたり、東は三鷹まであったそうですから、八王子を中心に、甲州側からの敵の侵入を広範囲に監視し報告する役割があったのかなと思います。元々、武田氏に仕えていた時は、甲府に至る街道の国境警護監視を担う人々でしたから。

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