忍び井戸
追記(6/3)
伊賀上野城(白鳳城)の沿革
昔この高台に平楽寺とよぶ伽藍があったが、
世に言う「天正・伊賀の乱」である。
この乱後、伊賀国主となった筒井四郎定次は城塞の大修築を行い、
城下町の建設に着手した。しかし、のちには重臣の暗闘のため、
慶長13年(1608)失政を理由に改易となり、
藤堂高虎が伊予の国から移封されて伊賀・伊勢の領主となった。
高虎は城郭を拡張、とくに大坂方(豊臣方)に備えるため、
西方には広大な高い石垣をめぐらした。(この石垣の高さは日本一といわれている)
また城下町を南へ移して、完全に武装した軍備の町を建設した。
したがって、当時の築城・軍略の大家、高虎によって綿密に設計され形造された上野の町は、現在日本でもごく少数の貴重な歴史的な町といわれている。
天守閣は慶長17年(1612)工事半ばにして暴風雨のため倒壊したが、
昭和10年(1935)川崎克氏(地元出身代議士)が私財を投じて復興、
上野城の石垣
慶長14年(1609)豊臣方への備えとして名古屋城の築城と、
清州から新城下への街丸ごとの引っ越しを決定。
この新たに作られた碁盤割の街が現在の名古屋の原型となり、
町や橋の名前も受け継がれています。
加藤清正・福島正紀ら西国大名20家に普請(土木工事)を命じました。
慶長17年(1612)にほぼ完成しました。
尾張初代藩主として家康九男の義直が入り、