新治
里山公園の母屋内の説明文では、宝永4年(1707年)は、侍医の太田道寿が領主であったとあるね。
また、奥津家の先祖は、
享保元年(1716年)には、名主になっているので、すでにこの場所で生活してただろうね。
『横浜
緑区史 通史編』P426に、「宝永4年(1707年)11月23日、富士山が大噴火を起こし、12月まで間断なく周辺20里に及んで火山灰が降った。このため、相模、武蔵、
駿河の麦作は全滅という大被害をこうむった。(中略)幕府は、宝永5年正月に降灰被害の三ヵ国復興資金調達のため、(中略)高100石に二両の国役を課し、(中略)当地域では、救助金として(中略)支給された」と記述されているけれどそれ以上のことは記載されてないみたい。
ここら辺では具体的にどのような被害があってどのようにして復旧したんだろう?『緑区史 資料編』も読んでみよう!